ラーメン横綱
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■■■ 横綱の歴史 ■■■

【第二章】夢は京都一のラーメン屋 〜草創期〜
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次和の子供の頃からの夢だった「商売人になる」は、達成されました。
しかし今度は、彼の次なる夢が動き出そうとしていました。
それは「京都で一番のラーメン屋になる」ことでした。
屋台から店舗へと居を構えた次和は、店づくり、味づくり、人づくりを着実に実践し、その夢に近づいてゆきます。
この章では、さまざまな試練と成長を繰り返しながら、ラーメン横綱が組織としてまとまってゆく成長過程を中心に辿ってみましょう。


1.二人三脚の毎日 〜夫婦で店作り
意欲と自信に満ちた次和の店を、屋台の頃からの常連さんが訪れるようになりました。昼は近くの営業マンたち、夜はトラックの運転手さんやホステスさんたちです。気さくな次和を常連たちは「大将!」と呼び、狭い店内はいつも活気と笑い声であふれていました。お昼のピーク時は、従業員が聞いてきた注文をもとに次和がラーメンを作り、できたラーメンに弘江が焼き豚、葱などの具を盛り付け、従業員に指示してお客様に出す。仕事はいつも、夫婦ならではの阿吽の呼吸で行われていたといいます。次和の口癖の「横綱の今があるのはあいつのおかげ」という言葉はその当時の弘江の仕事ぶりを思い出してのことでしょう。


はじめての店舗。
狭い店だがそれだけに常連さんとは
家族的なおつきあいができた。


身を粉にして働いた夫婦の努力は、ラーメン横綱の基礎を確実に形成していきました。この頃、次和の新たな目標が芽生えていました。子供の頃からの「商売人になる」という目標。これはすでに達成し、かつ満足のできるものでした。ラーメン屋として商売人になった次和にとって次なる目標、それは「同じラーメン屋なら、京都で一番になってやる!」
この新たな目標が、日ごとに次和の心にしっかりと刻まれていくようになりました。


2.味へのこだわり 〜豚骨スープ完成
ラーメン横綱の最大の特徴であり、最大のこだわりであるスープには、屋台での五年間、次和は惜しみなく労力と費用、そして時間をかけてきました。その成果もあって、店舗の開業当初は、一応美味しいスープは完成していました。しかし、普通の美味しさでは長続きしない、店を構えたからにはもっと癖になるような美味しさでないと。そう考えるとどうしてもスープの味に納得できないと感じる日々が続きました。次和は開業当時から、店が終ったあとでスープの研究をしていました。違う材料を使ってみる。手順を変えてみる。配合を変えてみる。そんな研究が毎日、明け方近くまで続きました。いろんなことを試して出来上がったスープに対して、次和は常にお客様の感想を聞くようにしていました。開業して数ヶ月後、屋台当時の豚骨スープよりも、より一層磨きがかかった豚骨スープが完成しました。その味は口コミで広がり、ラーメン横綱のファンは日を追って増えていきました。「ラーメン横綱のスープは」と、次和はしみじみと述懐します。「お客さんと一緒に作ってきた味なのです」


お客さんといっしょに
試行錯誤をくり返して作り上げた、
横綱のスープ。


3.多店舗化を決意 〜法人設立
次和と弘江は、意気揚々としていました。研究し尽くしたスープも好評で、それに伴い売上も順調でした。非常に充実していた毎日でした。しかし「さて」、と次和は思いました。今から俺は何をすべきなのか?もちろん目標は「京都で一番」。そのためには支店を作らなくては、店を増やさなくては・・・。でも、そんなに簡単に店を増やすことができるのか?また、そのためには何が必要なのか?ここで次和にとって一大転機がやってきます。「法人設立」。1981年(昭和56年)、10月の昼下がりのこと。それは五条店がオープンする2年前のことでした。法務局に訪れた白衣と長靴の男がいました。河野次和でした。彼は苦労して貯めた資金を元手に、ついに会社を興すことを決意します。
「有限会社ラーメン横綱」というのが、登記上の名称でした。次和は捺印をしました。次和はそのとき、捺印の意味すること、その先にある責任といったものを考えるあまり、武者震いしたといいます。かくしてそのとき法人としての(有)ラーメン横綱が誕生し、また、代表取締役社長河野次和が誕生したのでした。


4.増築、初めての支店 〜五条店オープン
「京都で一番のラーメン屋になる!」
それが、いつしか次和の口癖になっていました。彼は、ことあるごとに弘江や親しい常連さんに夢を語るようになりました。忙しい時間帯が終ったあと、弘江は伝票整理を手伝いながら次和のそんな言葉をよく聞いたといいます。
1983年(昭和58年)1月、次和は初の支店をオープンさせます。その場所は、交通量の非常に多い京都の五条通です。そして、通りから一歩奥へ入れば住宅の密集地、と非常に恵まれた環境でした。しかし残念なことに店舗の規模がわずか十坪で、もちろん駐車場などはあろうはずがありません。賃貸などでなく自社物件にこだわった次和にとって、当時はこの物件が手の届く限界でした。オープンまでの次和は気が気ではありませんでした。ところが、次和のそんな心配は、オープンして15分後に吹き飛びました。うれしいことに初日から行列ができたのです。中には本店(現・吉祥院店)によく来てくれている常連さんまで、この五条店で並んでくれているのです。
「サクラのつもりできたけど、必要なかったな。オープンおめでとう!」と励ますために。また、本店の評判を聞いてくれていた近所の方々は「早くできないかと楽しみにしていたよ」と。ラーメンを作りながらの次和と弘江の目には涙がにじんでいました。たくさんのお客さん、応援してくれるお客さん、楽しみにしてくれていたお客さん。初めての支店で、期待と不安、いやむしろ不安のほうが大きかっただけに、二人の喜びは言葉では表せられないほどだったといいます。


多店舗化の第1号、五条店。
現在の横綱から見れば小規模な店なのだが
開店の時は御覧のとおり。
派手好みである。


5.初の郊外型大規模店 〜醍醐店オープン
1985年(昭和60年)、ラーメン横綱として3店舗目、京都外環状線沿いに醍醐店をオープンさせました。醍醐店は、本店(現・吉祥院店)や五条店と違い、敷地250坪、建坪60坪、席数70席、駐車場は20台、店内もテーブル席をメインとした当時としてはそれまでのラーメン屋の常識をはるかに超えた、大きく明るい店でした。この店も五条店と同様に人気がでました。店はいつもお客様で賑わい、ピーク時には行列ができるほどでした。醍醐店の成功に気をよくした次和は、その当時の物価の上昇率などを考えて、それまで抑えてきた商品の値段を引き上げることにしました。するとそれまで右肩上がりだった業績が一気に下降線をたどりはじめました。客数は激減し、オープンした頃の賑わいは嘘のように消えました。次和は激しい衝撃を受けました。彼は信頼していたお客様から現実を突きつけられ、途方に暮れました。しかし、それも少し時間がかかりましたが、次和なりに答えを見つけることができました。
次和の答えとは『本当は自分たちの店はたいしたことなかったんだ、あぐらをかいてはだめなんだ、一生懸命して初めてお客様は来てくれるのだ』ということ。お客様はありがたくもあり、また冷たくもあります。一生懸命のお店にはありがたく、手を抜いたりあぐらをかく店には冷たいもの。その事実を真摯に受け止めた次和は再び値段を元に戻しました。すると、みるみるうちに売上も客数も元通りになったといいます。


3店目の醍醐店。
ここで最初の蹉跌を味わう。


その後、1987年(昭和62年)、京都東山通りに4店目の高野店をオープンさせます。それまでの新店舗では、オープン準備のすべての業務を次和が行っていましたが、この店からオープン準備にかかわる業務を社員に任せます。アルバイトの募集、研修、什器の手配、店内のセットなどの準備を、当時チーフだった山浦(現・常務取締役)を責任者にした4名の若いスタッフに初めて任せたのです。この店も成功しました。4番目の高野店も好調なスタートを切り、そして次和は経営に専念できるようになったのです。それまで次和の役目だった、新店をオープンさせて起動に乗せること。この仕事はすでに、次和が育てた若いスタッフ達でできるようになっていました。


手際の良さが味を決める。
次和の技術は、若手社員に受け継がれていく。


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